人生後半、ただ残り少ない時間を費やしていくだけなのか? 数々の苦難の末、その疑問が氷解した縁とは……

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代わり映えのしない日常の中で、ふと、 

何をやっても、むなしい」 
このまま自分の人生、終わってしまうのか……」  

という思いが去来することはないでしょうか。 

 インターネットで知り合った吉村健士さん(仮名・54)も、そんな思いを抱えた一人でした。 

ところが、吉村さんは波瀾万丈の末、その心が大転換し、苦しかったことも辛かったことも、すべてが喜べるようになったのです。  

以下、吉村健士さんの告白です。  

両親、妻、娘、仕事…… 大切なものは皆 離れていった……


「健士、来てくれ!」  

 闇夜をつんざくような父の悲鳴を聞いたのは、高2の春、祖父の葬儀のあった夜中のことでした。 
ベッドから飛び起きて、両親の寝室へ駆けつけると、父が、必死で母に人工呼吸をしています。 
まもなく母は病院へ救急搬送されましたが、手遅れでした。 
享年39歳。 
ほんの1時間前、おやすみの挨拶を交わした母の、夢想だにしなかった急死でした。

 しばらくは皆、悲しみに沈んでいましたが、父は寂しさのあまりか、喪の明けぬうちに再婚。 
私は高校を終えたあと、父の会社を手伝うことにしました。  

しかし、義母と反りが合わず、26歳で独立、運送業を始めたのです。 





1人で受注を取り、1人でトラックを運転して全国に品物を配送する仕事です。 
バブル景気の波に乗り、商売は順調でした。 
1年後に結婚し、かわいい女の子にも恵まれました。  

 しばらくして、妻がたびたび私のポケベルを鳴らすようになりました。 
「早く帰ってきて」という気持ちからでしょうが、そこは長距離ドライバー、容易に家へは戻れません。 
寂しさに耐えかねた妻は、実家に帰り、ほどなく離婚となりました。  

娘の親権だけは欲しいと願ったものの、調停の場で、妻の腕に抱かれる娘の寝顔を見た時、「母親から引き離すのは酷だ」と感じ、権利を放棄したのです。  

娘は、まだ8カ月でした。 
離れ離れになったあとも、娘の顔が見たくて、電信柱の陰からそっと姿を見に行ったのは、1度や2度ではありません。  

 そのあとです。大手の得意先の配達期日に間に合わないという、あってはならぬミスを犯したのは。 

その補償のため、私は大きな負債を抱えることになりました。 
父が借金を肩代わりしてくれることになり、その恩義に報いるため、事業をたたんで再び、父の会社で働くようになりました。  

「健士君、うちのナンバー1の子や。どうや」  
と勧める得意先の社長の紹介で、私は再婚しました。 
妻は、それは気立てのよい、美しい女性でした。  




今度こそ、幸せをつかんでみせると、会社の事業を1から勉強し、技術的な知識も身に着けて開発にも携わるようになりました。  

また、家族サービスにも心掛け、長期の休暇には必ず、また、土日にも、よく妻と旅行に出掛け、それは仲の良い夫婦でした。  

 ところが、今度は、父の会社で社運を左右するような商品の欠陥が発覚し、そのクレーム処理に全国を奔走しなければならなくなったのです。またもや家に帰れない状態が続きました。  

妻は、「会社を辞めて。貧乏してもいいから、普通の生活がしたい」と繰り返し訴えるようになりました。 
しかし、窮地の父を見捨てることはできません。 
妻は別居したり、戻ったりと、結婚生活は破綻寸前でした。  

 そんな最中、あの阪神大震災が起こったのです。  




当時、私たちは、兵庫県尼崎市に住んでいました。 
マンションの部屋はグチャグチャになり、妻の実家は倒壊、会社の内部もメチャクチャになりました。  

妻のショックはかなり大きいもので、いわゆるPTSD(心的外傷後ストレス障害)にかかってしまったのです。  

異常事態が長引く仕事と、異常な夫婦生活の中、震災の爪痕の残る街で暮らすうちに、全てをはかなく感じ、がむしゃらな思いが消え去っていくような自分を感じていました。  

どんなことの積み上げも、天災の前ではかなわない」 

人間の努力、幸福、宝のような産物も、一瞬にして消え去ってしまう」  

そんな思いを抱きつつも、余計忙しくなった実務をこなすのが精一杯。 
グチャグチャになった夫婦の部屋の整理もせず、妻への十分ないたわりも忘れ、仕事に突き進んでいきました。 

そんな私の猛進は、もう、2人の関係に答えを出していたようなものでした。  
2人の部屋が元通りにならなかったことが象徴するように、夫婦関係は修復せず、離婚に至ったのです。 

 クレームの嵐が収まり、ようやく落ち着いてきたかに見えた35歳の夏、今度は、父がプレジャーボートの海難事故で亡くなりました。59歳でした。

父は常々私に強く後継を望み、遺言状を作ると言っていた矢先のことでした。 
義母は役員を巻き込んで、私に会社を離れてほしいと言ってきました。 
父なき会社に未練を断つことは容易で、遺産相続を解決させ、会社を離れたのです。  

億の遺産を手にしても


父の死のショックが大きく、しばらく次の仕事に就く気もしませんでした。  

手にした遺産は2億を超えていましたが、資金繰りにあくせくしていた日々とは裏腹に、今となっては「これがどれだけの価値があるんや」としか思えません。  

大切な人は、皆、目の前から去っていき、天職だと打ち込んできた仕事も退くことになった。  

一生懸命、走ってきた割りには、何も残っていない。
一体、何のために生きてきたんだろう。
何を追いかけてきたのか。

いつ死んでも後悔ないように全部使ってしまおう。好きなことをして遊びまくってやろう」 
と思い立ち、ベンツのAMGという愛車に乗って日本全国を回り、夜の街に繰り出して、放蕩の限りを尽くしたのです。  




1晩に100万単位のお金を使ったこともあります。 
8カ月でお金は底を突きました。 
刹那の快楽を求めても、ただむなしいだけでした。

裸一貫、再出発を期して、解体工の職に就きました。 
今までの開発や営業とは全く畑の違う肉体労働です。 
汗水流して頑張りましたが、それもつかの間、腰を痛めて続けられなくなってしまいました。  

 次に就いたのは、チリ紙交換の仕事でした。「紙くらい集められんでどないすんねん!」との思いで、睡眠時間を惜しんで働いた結果、グループ企業の中で、全国6位の営業成績を上げるまでになりました。  

しかし次第に腰が悪化して歩くことさえままならなくなり、その仕事も辞めざるをえなくなったのです。  

人間にとっての最大の壁


 私は50歳になっていました。リハビリ生活を余儀なくされ、立ち止まって考える時間が生まれました。  

ああ、こうやって俺の人生は終わってゆくのだろうか」 

『ただ生きている』ということは、『ただ死んでいく』のと同じじゃないか」  

 その考えは、私を震え上がらせました。 
そして、晩年に向けて自分に何が必要なのか、最も大事なことをしなければならないと思ったのです。 
それは何かと考えた時に、「自分がいずれ死んでいく」ことが、いちばん大きな問題ではないかと感じ、まず、死への心の準備をしておきたいと思いました。  

 私はそれまでに、2回、死にかけた経験がありました。  

 1回目は、免許取りたての18歳の時。東海道新幹線の橋の欄干に激突し、車ごと新幹線の線路の上に落ちたのです。  

幸い、一度バウンドして、新幹線の通るすれすれのところで止まりました。  

車体は3分の2ほどにつぶれ、運転席のドアが開きません。 
このままでは車が炎上するかもしれないと思った時の恐怖は忘れられません。  

決死の思いで後部のドアから脱出し、血まみれの体で動かない左足を引きずりながら、公衆電話までたどりついて救急車を呼び、通りかかったタクシーに助けを求めました。  

出血と全身打撲で遠のく意識の中、「ここで失神したら死んでしまう、死にたくない!」と必死でした。  

2回目は、40歳の時です。 

友達と囲碁をしていた時、鼻の奥で、プシュッと音がして、急に血がたれてきたのです。  
鼻にチリ紙をつめて横になっても止まらず、救急病院へ行きました。  

そこで止血治療をしても止まりません。  
血圧は226になっていました。 
数種類の止血法を試しても、プクプクと異常な音を立てながら鼻血が噴き出し続け、それは2日間続きました。  

このまま死ぬかもしれん」と思った時、 
まだ死ねない、死にたくない!」 
と、また、心が叫びました。  

その病院では手に負えないと判断されて、別の病院へ搬送される途中で、治療がやっと効いてきたのでしょう、ようやく出血が収まったのです。  




実は、この2回目に死にかけるまでに、私は、死の準備はできているつもりでいました。  

母が他界し、父も突然の事故で亡くなったあと、次は自分だと思い、「」に関する本を読んだり、歴史小説などから人の死にざまを想像して、死の心構えをしていこうとしていたからです。  

曲舞の演目「敦盛(あつもり)」にある、 

人間50年、下天(げてん)のうちをくらぶれば、夢幻のごとくなり、一度(ひとたび)生を享(う)け、滅せぬもののあるべきか」  

や、禅僧・快川(かいせん)の、  

「心頭滅却すれば火も自ら涼し」(しんとうめっきゃくすれば ひもおのずからすずし)  

など、戦国時代を生き抜いた人々の句を思い出しては、死へのイメージトレーニングを繰り返しました。 

そうやって心の準備をしていたつもりが、現実の死の前には、男として恥ずかしいほどおびえ、居ても立ってもいられなくなり、そわそわし、惑乱してしまった。  

そこそこの年齢に達していても、 
決死という美学。オレのあの学問はどこへいったのか!全く通用しなかった」 と思い知らされたのです。 



死も碍りにならぬ世界があった!


 50を過ぎてそれらの体験を思い出した時、やはり、死ほど根深い問題はないと再確認し、模索へと突き動かされていきました。  

そうして、インターネットで検索しているうちに、親鸞聖人の教えを学んでいるという女性に出会ったのです。  

そして、有名な『歎異抄(たんにしょう)』の、  

無碍の一道(むげのいちどう)」(※)  

という言葉の意味を聞かされ、驚きました。  



人生の目的を達成した人は、一切が障りとならぬ、絶対の幸福者である」  

 仏教には、人間にとっての最大のさわりである死を前にしても崩れぬ絶対の幸福者になれる道が説かれていて、その身になることこそが、人間として生まれてきた目的なのだと言うではありませんか。 

正直、最初は半信半疑でした。 
しかし、学べば学ぶほど、納得せずにおれぬ理路整然とした教義とその底知れぬ深さに驚嘆せずにおれなくなっていったのです。  

それはまさに、私が探し求めていた答えそのものでした。  

 聞き始めて1年余り、私は、死もさわりにならぬ絶対の幸福になれることを人生で初めて学び、知ることができました。 
今、毎日に大きな喜びがあります。  

仏教こそ、私が希求していた教えだったと知り、未来が限りなく明るくなっています。 
数々の苦難の過去も含め、これまでの一切が「縁」というものではないかと、今、強く思っています。  

________________________________________  

以上が、吉村さんが語ってくれた人生経路です。 
今は腰も快復して新たな仕事に就き、よい友達にも恵まれ、心身ともに充実した日々を送っています。 
最後に、そんな感慨とともに、吉村さんがしたためてくれた詩を紹介して終わりたいと思います。 

________________________________________  

氷解の縁(ひょうかいの えにし) 

____________________ 
「ただ生きている」 
ふと、そんな恐怖が押し迫って来た時、 
自分を見直してみた。 
燃え上がる恋愛の底は知れ、 
汗にまみれた仕事の底は知れ、 
家庭の幸福の底は知れ、 
俺はまたこの先、 
そんな底知れた世界に向かって、 
ただあくせくと残り少なくなった時間を 
費やしていくだけなのだろうか?  

そんな疑問を持ち始めた時、 
俺にはまだ底知れぬ世界があったことに気づいた。  

この虚しさ…… 
俺には、その先がまだわからない。  

この正体を知るために、 
俺は一体どこへ向かい、 
何をすればいいのだろうか?  

俺は明日もまた、 
そんなもやもやにため息をつきながら 
過ごすのだろう……  

……そんな茫漠とした日々の中で 
ふと出遇った一筋の道。 
彼方からの光。 
俺のもやもやは次々に氷解してゆき、 
俺は知らぬ間に歓喜の握りこぶしをつくった! 
遠き古の向こうから、 
細い細い堅牢な糸で繋がって来た 
究極の一説の中に、 
我が魂の解決策があったとは!  

この世で「縁」が如何に大切か! 
そんな不思議な「縁」の糸に繋がれて、 
俺は今、 
煌々とした道を一心に歩んでいる。 
______________________  



(※「無碍の一道」についてもっと詳しくお知りになりたい方はコチラの記事をご覧ください)  
(まとめ)「幸せ」と「本当の幸せ」の2つの違いをご存じですか?
「幸せ」という言葉はあふれているけれど、「幸せとは何か」となるとなかなか分かりずらい問題ですよね。 まして「本当の幸せって何?」と...


情報提供 浄土真宗親鸞会 由紀  





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