ズバリ「本当の幸せ」ってどんな幸せ? 「幸せ」と「本当の幸せ」の違い(最終回)

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これまでシリーズで「幸せ」と「本当の幸せ」の違いについて話してきました。  
(まとめ)「幸せ」と「本当の幸せ」の2つの違いをご存じですか?
「幸せ」という言葉はあふれているけれど、「幸せとは何か」となるとなかなか分かりずらい問題ですよね。 まして「本当の幸せって何?」と...

簡単にまとめますとこうなります。  



●なぜ生きるの答え = (本当の)幸せ  ※本当の安心・満足  


●お金、財、地位、名声といった幸せが「本当の幸せ」といえない2つの理由  

(理由1)キリがないから不満(⇔満足)    

(理由2)続かないから不安 (⇔安心)※死がきたら崩れる  


●老いと病と死を超えた幸せが本当の幸せ  




最終回の今日は、  

ズバリ「本当の幸せ」ってどんな幸せ?

という題でお話しいたします。  



「本当の幸せ」は見えない



まず前提として、幸せは心の状態ですから「こちらをご覧ください。これが本当の幸せです」と直接お見せすることはできません。

その場で見せることも経験してもらうこともできないのに、それを正しく伝えるのは大変難しいことです。 

例えば、  

スイカを食べたことのない人にスイカの味を分かってもらおうとした場合、、  

あなたならどう伝えるでしょうか。  

ちょっと考えてみましょう。  


───────────  

「スイカはね、シャクシャクっとしててね、みずみずしくて味は適度に甘いの」  

「チョコレートみたいな甘さ?」  

「いやいやチョコレートの甘さとは全然ちがうよ」  

「じゃあメロンみたいな甘さ?」  

「うーん、メロンとも大分ちがうな」  

「あれじゃないこれじゃないでなくて、こんな味って教えて!」  

「そういわれても……。食べてみれば一発で分かるのにな~」  

───────────  




スイカの味を伝えようとしても、こんな調子ではないでしょうか?  

スイカの味でさえ相手に伝えるのは難しいもの。  

まして「本当の幸せ」は言葉で表し尽くせるものではありません。  

だからといって言葉にしなかったなら取り付く島もなくなりますので、どう伝えたらよいかと先哲はギリギリいっぱいの表現で「本当の幸せ」を伝えてきたのです。

今日はその表現の一つをお話しいたします。  

名著『歎異抄』に書かれた「本当の幸せ」とは



歎異抄(たんにしょう)』という最も読まれている仏教書があります。  



親鸞聖人の言葉を書き残したもので、鎌倉時代に書かれた古典です。  

その『歎異抄』について、『竜馬がゆく』『坂の上の雲』などで有名な作家、司馬遼太郎(しば りょうたろう)はこう言っています。  



 


無人島に一冊の本を持っていくとしたら『歎異抄』だ。(司馬遼太郎)
             (『週刊朝日』平成8年11月1日号)  

     



その『歎異抄』には、本当の幸せを「無碍の一道(むげのいちどう)」と教えられています。  



本当の幸せ = 無碍の一道

  


日常では使われない仏教の専門用語なので難しく感じられたかもしれません。  

今日は、この言葉をできるだけ平易な表現でお話ししたいと思います。  


まず、比較的説明しやすい  

一道(いちどう)」  

からお話ししましょう。  


」とは、「たった一つの」ということ。  

二つも三つもない、唯一の「一」、唯一絶対の「一」です。  


」は、「世界」、「心の世界」ということ。  


次に  

(げ)」  

という言葉。  

なかなか目にすることのない字ですね。  


この「(げ)」とは、「さわり」という意味で、  

「差しさわりがある」  

などと使う「さわり」です。  


国語辞典を引くと

1 差し支え。じゃま。妨げ。支障。「修行の《さわり》になる」  


と書かれてありました。  


生きていく上で、色々と苦しみ悩むことがありますよね。  

それは、何かのさわりによって苦しむのです。  

様々なさわりがあって、辛い思いになる。  


小さいさわり、大きいさわり、突然生じたさわり、日常的なさわり、色々あります。  

ちょうど、海に立つ波と同じ。  

海に波が絶えないように、人生にも種々のさわりが絶えません。  


毎日同じようなことを繰り返す中、問題が起きる。  

その問題を解決してやれやれという間もなく別の問題が出てくる。  

苦しみの波が絶えずやってくる。  

大小あっても、波は波。  

そのさわりのために苦しんでいます。  

それらのさわりのために、苦しみから離れきれずにいます。  


しかし、  

私たちは苦しむために生まれてきたのではありません。生きているのではありません。  

幸せになるために生きています。  

さわりがない世界を私たちは求めているのです。


「無碍(むげ)」の世界を求めているということです。  

「さわりが さわりでなくなる」とは



ここで気を付けねばならないことが一つあります。 それは、ここでいわれる「無碍」とは「さわり自体が無くなる」のでは【ない】」、ということです。  


「さわりが無い」のに、「さわり自体が無くなるのでは【ない】」とはいかなることか?  

それは、「さわりが さわりとならなくなる」ということです。  


無碍の一道に出ても、さわりがなくなるのではありません。  

さわりはあるが、さわりでなくなる。  


ちょっとややこしいですが、  

さわりをなくして、さわりがなくなるというのではなく、  

さわりのまんま、さわりでなくなったのが、「無碍」です。  


実際、「さわり自体」を無くすなんて不可能ですよね。  

トラックにはねられても無傷とか、  

年をまったくとらなくなるとか、  

不死身になるとか、  

それはもう人間ではありません。  


ですから、「さわり」自体はある。  

老い」「」「」などの「さわり」はある。  

その「さわりがあるまま」で「さわりとならない」。  

それが「無碍」。  


身近なたとえでお話すると……



一切のさわりがさわりにならない幸せに生かされる。  

そう聞くと、  

さわりだらけの世界のさわりのままで、自由に生きられるなんて、本当なの?」  

と思われるでしょう。  

その世界を誰もが納得できるように説明するのは困難ですが『なぜ生きる』という本に無碍の一道をこのようなたとえで教えられています。  



少年は山ひとつ越えた学校へ、一人で通学しなければならなかった。  

課外活動で遅くなった帰路などは、どきっとするようなさびしい山道もある。  

夏はジリジリ照りつける太陽に焼かれ、冬は容赦なくたたきつける吹雪に、しゃがみこむこともあった。  

雨がふると、たちまち坂道が滝になる。  

ああ、もっと学校が近ければ……。この山さえなかったら……」  

いつも山と道とが、恨めしかった。  

やがて学校に、美しい少女が転校してきた。なんと彼女は同じ村ではないか。  

以来、しばしば一緒に通学し、遠い学校のこと、さびしい山道のことなども語りあう、親しい仲になっていた。  

ある日、学校を出てしばらくすると、にわか雨におそわれた。なかなかやみそうにない。  

傘は少女の一本だけ。  

思いがけずに相合傘になった少年は、村に着くまでひそかに願った。

〝雨がやまないように〟  

〝山がもっとさびしければ〟  

〝村がもっと遠ければいい〟


〝苦しめるもの〟と、あんなに恨んでいた道の遠さも、山のさびしさも、変わってはいないのに、今は少しも苦にならない。  

〝さわり〟がかえって楽しみになっているようなのだ。  

一時的にしろ、誰にでも、身に覚えのあるようなことではなかろうか。  

  『なぜ生きる』高森顕徹(監修) 明橋大二 / 伊藤健太郎(共著) 1万年堂出版
『なぜ生きる』高森顕徹(監修) 明橋 大二 / 伊藤 健太郎(共著)公式サイト




もともと「雨」「山道」「遠い道のり」が「さわり」だったのですが、美しい少女と相々傘になれば、  

〝雨がやまないように〟 〝山がもっとさびしければ〟 〝村がもっと遠ければいい〟  

と「さわりがさわりにならない」ですね。  


勿論、これはたとえです。  

たとえは一部分しか表しませんから、あわないところもあります。  


ここでのたとえでは、「さわり」があるままで「さわりがさわりとならなくなる」こともある、ということを表したものです。  

相々傘が無碍の一道ではありませんので、念のため。  

最後に



あちこちにさわりがあって、こっちぶつかり、あっちぶつかり、苦しんでいるのが私たち。  

それがさわりとならなくなれば幸福です。  

ですから、  

無碍」とは「幸福」ということ。  


一道とは、一本道と思われるかもしれませんが、先にお話ししたように、「一」は絶対をあらわします。  

唯一絶対」という言葉ありますよね。そのことです。  

つまり、  

無碍の一道とは、今日の言葉でいえば「絶対の幸福」となりましょう。  



無碍の一道 = 絶対の幸福


私たちは幸せを求めているといっても、心底求めているのは今日あって明日なくなるような幸せではありません。  

崩れない変わらない幸福を求めています。  

そんな幸せを『歎異抄』では、「無碍の一道」といわれているのです。  


ここで知っていただきたいのは、私たちが日ごろ考えている「幸せ」は  



 (理由1)キリがないから不満(⇔満足)    

 (理由2)続かないから不安 (⇔安心)※死がきたら崩れる  



という二つの点から考えても「本当の幸せ」とはいえず、「本当の幸せ」は別なところにある、ということ。  

そしてその「本当の幸せ」を仏教が詳しく教えているということです。  


ちょっと難しく感じられたかもしれませんが、とても大事なことですし、めったに知る機会がないと思いますので、これを機会に「本当の幸せ」についてより深く学んでみてはいかがでしょうか。  

より詳しく知りたい方はコチラがお勧めです。  

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情報提供 浄土真宗親鸞会 旅夫





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